一度は極めた競馬予想。大きな挫折を味わい今ここに羽ばたく馬のごとく、ブログデビュー。予想師さんの検証が1番です。
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小牧太来歴

兵庫所属時代

兵庫県競馬組合の曾和直榮厩舎に所属。初騎乗は1985年10月30日で初勝利は同年11月3日。曾和厩舎の主戦騎手として、楠賞全日本アラブ優駿3勝など数々の重賞を制覇した。当時、兵庫県競馬に長く君臨していた田中道夫(現・調教師)に引導を渡したのも彼である。兵庫県でのリーディング獲得は9年連続を含む10回を数え、1994年1996年には全国リーディングを獲得している。

アラブ時代は縁が無かった三冠制覇はサラブレッド導入2年目にロードバクシンで達成している。

小牧太 中央競馬での活躍、移籍

中央競馬での初勝利は1993年ワールドスーパージョッキーズシリーズ参戦時。その後、兵庫県競馬にもサラブレッドが導入されたことから中央競馬での騎乗も増え、移籍前に重賞を2勝している。この頃から橋口弘次郎厩舎の所属馬に騎乗する機会が増えた。

2001年2002年に中央競馬で20勝以上を挙げ、JRAの騎手試験の一次試験の筆記試験(国語・数学・競馬法規)が免除され二次試験(技能試験と面接)から受験できる資格を得た。2003年の同試験に合格し、2004年にJRAへ移籍。兵庫県競馬組合所属としての最後の勝利は、特別に「フェアウェルステージ」と改称されたレースで同じくJRAへ移籍する赤木高太郎をマッチレースの末、クビ差抑えてのものだった。通算勝利は3376勝。

小牧太 日本中央競馬会移籍後

移籍後の初騎乗は2004年3月6日、初勝利は翌3月7日。しかしJRA移籍後は移籍前より下手になっていると陰口を叩かれる事もある。ダイタクバートラムでは同じようなミスを犯し、しかもミルコ・デムーロに乗り代わった途端に圧勝されるなど与えられたチャンスを生かせなかった。また、騎乗機会の多かった橋口厩舎の馬でも近年は上村洋行ペールギュントなど)や藤岡佑介ローゼンクロイツなど)に委ねられる事が多くなってきている。

それでも移籍4年間で重賞を9勝(地方込み)、2006年2月26日の阪神第2レースで中央競馬通算200勝、2007年10月7日に中央競馬通算300勝を達成している。2007年2月34日には小倉大賞典シルクロードステークスと2日間で重賞2勝するという偉業を達成している。

2008年4月13日桜花賞をレジネッタで制し、JRA移籍5年目にして初のJpnI(GIを含む)勝利を飾った。同年のスプリングステークスをスマイルジャックで制するなど同年のクラシック世代で活躍していることから、桜花賞実況の馬場鉄志関西テレビアナウンサー)をして「今年は小牧の年か!」と評するなど、今後の活躍が期待されている。なお、桜花賞以後もレジネッタを優駿牝馬で5番人気3着、東京優駿ではスマイルジャックを12番人気で2着に好走させ、それぞれのレースで3連単44万馬券、20万馬券となるのに一役買うなど、2008年の3歳春クラシックを盛り上げたジョッキーの一人である。また、夏にはカノヤザクラでアイビスサマーダッシュセントウルステークスを制してサマージョッキーズシリーズに優勝、JRA移籍後初となるワールドスーパージョッキーズシリーズへも参戦した。

2009年7月19日アイビスサマーダッシュ新潟競馬場)をカノヤザクラで制し、人馬共に史上初となる、アイビスサマーダッシュ連覇を記録した。

なおJRA所属となってからも兵庫への参戦は活発で、2004年に条件レベルの交流戦を中心に地方全体で10勝を挙げ、兵庫での重賞成績は4戦2勝2着2回。三冠の園田ダービー菊水賞では兵庫所属のホクセツガーデンに騎乗している。なお、現在でも時々兵庫で地元馬に騎乗する事があるが、岩田康誠のように以前の勝負服を着用する事は無い(毅が勝負服を受け継ぐ前から)。ただし、必ず緑色ベースの貸し服を着用するのでかつてのイメージは残されている。

小牧太エピソード

泣き虫ジョッキー

太は感激屋であり、非常に涙もろいことで知られている。前述の中央競馬初勝利のワールドスーパージョッキーズシリーズでの表彰台に上がった際に涙を見せたのをはじめ、JRA移籍直前の園田競馬場での壮行会でも涙で挨拶にならず(最初に一言しゃべりかけたものの涙で詰まってしまい、1分以上泣きじゃくって何も言えず、なんとか「JRAに行っても応援してください!」とだけ言うのがやっとであった。一方の赤木高太郎は関係者やファン向けに淡々と謝辞を述べており、対照的な光景であった)、自身念願の初JpnI(GIを含む)勝利となった桜花賞の勝利ジョッキーインタビューでは「ファンの皆さんにやっとJpnIを勝てました、お待たせしましたと言いたい」とコメントし、ここでも涙を見せた。かつて、弟の毅が重賞初制覇をした時は、本人の分も泣いていたほどである。

小牧太 優駿謝罪事件

この涙もろい性格がある騒動を引き起こしたことがある。1993年、ワールドスーパージョッキーズシリーズでの勝利の翌月のJRAピーアールセンター発行の月刊誌「優駿」誌上で、さるコラムライター(岩田康誠の友人である)が自身のコラムにおいてこの様子を「1500万下の競走に勝って泣くとは前代未聞」と茶化してしまい、読者、果ては地方競馬調教師からも抗議の手紙が寄せられ、編集部が誌面にて謝罪するという事態に発展した。

ジョーク中心のコラムに対しては過剰とも思える反応のようだが、当時は地方競馬所属の騎手が中央競馬のレースに乗ることのできる機会はめったになく、さらに世界の一流のジョッキーばかりが乗るレースで勝つとなるとそれこそ至難の業であったことを付記しておく(中央競馬と地方競馬の交流が現在の形になったのは1995年以降)。なお、岩田康誠だけは、このライターを擁護する発言をしている。

藤田伸二概要

新冠中学校卒業後、1年間の牧場勤務を経て競馬学校に入学(7期生)、1991年に中央競馬の騎手としてデビュー(栗東・境直行厩舎所属、同期には四位洋文安田康彦らがいる)。初騎乗は1991年3月2日中京競馬第1競走のハイビスカスマミー(13頭立ての7着)、同年3月9日、中京競馬第1競走で初勝利を挙げる(優勝馬マキバスクリーン)。

1991年にノーザンコンダクトラジオたんぱ杯3歳ステークスを制し重賞初勝利、以後2009年現在まで毎年重賞を勝利している。翌1992年タケノベルベットエリザベス女王杯を制しGIを初制覇。1996年にはフサイチコンコルド東京優駿(日本ダービー)を制し、史上2番目の若さでダービージョッキーの仲間入りを果たした。2009年8月現在でGI級11勝、うち高松宮記念を3勝(1999年マサラッキ、2002年ショウナンカンプ、2009年ローレルゲレイロ)しており、GI昇格後の高松宮記念最多勝ジョッキーでもある。2004年には安田富男武豊に次ぐJRA史上3人目となる中央競馬全10場重賞制覇を達成している。

夏競馬開催は生まれ故郷である北海道(函館札幌競馬場)を主戦場とし、多くの勝ち鞍を挙げている。2007年6月16日には函館開催の初日、1日9連対のJRAタイ記録を達成した(武豊、横山典弘に次ぐ3人目)。

豪快な騎乗センスに定評があるが、同時にクリーンな騎乗を心がけており、制裁の対象となることは非常に少ない。そのため競馬学校の特別講師として招かれることもある。2004年に年間の制裁点が0点でありかつ優秀騎手賞を受賞したことにより、JRA史上3人目(柴田政人河内洋に次いで)となる特別模範騎手賞を最年少で受賞した。藤田自身は「ようやく自分にも1つ、豊さんに破られない記録を作ることができた」と感想を語った。

近年は栗東・藤原英昭厩舎の主戦騎手を務める。一方栗東所属でありながら、東京中山での騎乗を大幅に増加させている。

藤田伸二エピソード 

  • 過換気症候群の持病がある。
  • 競馬学校時代に格闘技を習い始め、現在ではセミプロレベルの格闘技術を保有している。
  • 北海道出身、北海道参戦の縁から、2006年8月16日札幌ドームのプロ野球日本ハム-西武戦で背番号「男」のユニフォームを着て始球式を務めた。直球、ストライクを投げ込んだ。
  • 仲の良い騎手や厩務員には感謝や気遣いの心を忘れない一面もある。公私共に親しく、2007年に落馬負傷した石山繁騎手の妻が執筆した単行本「落馬脳挫傷」のプロデュースを務める。
  • 先輩騎手である田原成貴に弟分として同期である四位洋文と共に可愛がられていた。その縁で田原が1999年に調教師に転身した後も同厩舎の期待馬フサイチゼノン等の主戦ジョッキーとして活躍していたが、2001年に田原が起こした覚せい剤所持事件をきっかけに関係が切れた(田原が15年間競馬業界に関われないこともあるため)。なお、同期である四位洋文とは競馬学校時代からの親友である。
  • 2009年から始めたブログの更新と麻雀が趣味で、「よろしいやん」という名言が生まれておりローレルゲレイロで勝利した高松宮記念の勝利ジョッキーインタビューの際「馬券が当たってよろしいやん」という発言もした。

藤田伸二不祥事 

2006年12月21日栗東市内の飲食店で酒に酔い従業員の接客態度に腹を立て、その従業員に対し暴力行為に及び、裁定委員会による正式処分決定まで騎乗停止となる。2007年1月5日に処分が決定、2006年12月22日から2007年3月21日までの騎乗停止に。平成18年(2006年)度きゅう舎関係者表彰(優秀騎手賞の各部門及びフェアプレー賞)の対象でもあったがこの件を受けて除外された。また2007年3月19日までに傷害容疑で書類送検されたが、「被害者と示談が成立している」として起訴猶予処分となった。

表彰

 

主な騎乗馬

四位洋文

1991年古川平厩舎からデビュー。同期には藤田伸二らがいる。初騎乗は1991年3月2日中京競馬第2競走のキリシマミズキで、16頭立ての13着だった。初勝利は同年5月19日京都競馬第8競走で、サンラブホーラーに騎乗してのものであった。同期の藤田が1年目から重賞を勝利するなどの華々しい活躍をしていたのとは対照的に、デビューから3年間はあまり目立った成績は挙がらなかった。

4年目の1994年ゴールデンジャック桜花賞トライアル4歳牝馬特別を制して重賞初勝利。本番の桜花賞では13着に敗れたものの、続く4歳牝馬特別に勝利し、優駿牝馬(オークス)では2着に入るなどの活躍を見せた。この頃から成績も伸びてきて、関西リーディングの上位に名を連ねるようになる。

1996年にはイシノサンデー皐月賞を制し、GI初勝利。同年に古馬牝馬に開放されたエリザベス女王杯ではダンスパートナーに騎乗してこれを制した。

2001年には騎手を引退した的場均の後を受けアグネスデジタルに騎乗、マイルチャンピオンシップ南部杯天皇賞(秋)香港カップを制した。特に天皇賞(秋)はテイエムオペラオーを破る快挙だった。この年は、98勝を挙げ関西リーディングに輝いている。また、アグネスデジタルでは2002年フェブラリーステークスを、2003年には安田記念を勝利した。

2006年2月18日東京競馬第10競走の勝利で、JRA通算1000勝を達成した。

2007年5月27日、第74回東京優駿(日本ダービー)ウオッカで勝利し、日本ダービー初制覇。これは、クリフジ以来64年ぶりとなる牝馬による日本ダービー勝利という快挙であった。また、同年10月21日、第68回菊花賞アサクサキングスで勝利し、三冠競走の全てに勝利した(史上17人目)。また同一年の日本ダービー・菊花賞を異なる馬で制覇したのも国営競馬・中央競馬を通じ、現行の3歳クラシック路線が整備されて以降、史上初となるものであった。

2008年5月11日の第13回NHKマイルカップおよび同年6月1日の第75回東京優駿をディープスカイで制覇した。特に東京優駿は前年のウオッカに続く2年連続制覇(史上2人目)であり、かつ牡馬と牝馬の双方での制覇は国営競馬・中央競馬を通じて史上初となるものであった。

成績 

GI及びJpnI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)

 

以上JRA・GI12勝(うちJpnI4勝)(海外GI1勝、交流GI1勝)

年度別成績

勝利数・連対率 
1991年10勝 (.150) 
1992年24勝 (.192) 
1993年27勝 (.147) 
1994年56勝 (.195) 
1995年64勝 (.247) 
1996年71勝 (.242) 
1997年64勝 (.242) 
1998年85勝 (.288) 
1999年85勝 (.246) 
2000年101勝 (.249) 
2001年98勝 (.277)関西リーディング1位
2002年85勝 (.231) 
2003年73勝 (.193) 
2004年74勝 (.239) 
2005年78勝 (.210) 
2006年64勝 (.213)1000勝達成
2007年62勝 (.183) 
2008年50勝 (.182) 

以上JRA1171勝、重賞56勝(2008年終了時点)

表彰歴 

  • JRA優秀騎手賞 - 2000年、2001年
  • JRAフェアプレー賞(関西) - 1999年-2004年、2007

福永裕一

競馬学校入学時より「天才」と称された父・洋一の2世騎手ということで話題を集めていた。なお同年にデビューした騎手はJRA初の女性騎手となった牧原由貴子(当時)ら3人の女性騎手や双子の騎手として話題となる柴田大知未崎、そして後にテイエムオペラオーとのコンビで一世を風靡する和田竜二などがおり競馬学校花の12期生と言われ話題を集め、引退した常石勝義を含めて現在でも仲が良いことで有名。

1996年3月2日中京競馬第2競走でマルブツブレベストに騎乗し堂々の初騎乗初勝利を挙げると続く第3競走でもレイベストメントで勝利し、デビュー2連勝というデビューを飾る。この年は53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手も獲得した。

 

1997年7月22日川崎競馬場(スパーキングナイター)で行なわれた第44回エンプレス杯でシルクフェニックスに騎乗し重賞初制覇。同年11月15日キングヘイロー東京スポーツ杯3歳ステークスに勝ちJRA重賞初勝利。同馬の主戦騎手として翌年のクラシックでもコンビを組み皐月賞では2着となったが、続く東京優駿(日本ダービー)では引っ掛ったキングヘイローを制御できずにいつもとは違う逃げの競馬になり14着に敗れた。秋初戦の神戸新聞杯からはキングヘイローの主戦は岡部幸雄で行くことが発表されたが、次走の京都新聞杯では岡部が当初海外に行く予定が入っていたため、再び手綱をとって2着。京都新聞杯では最後の直線で祐一の叫び声に、スペシャルウィークで馬体を併せた武豊がキングヘイローにかける気合に驚いたと言われている。しかし、最後の1冠となった菊花賞で5着、次走の有馬記念で6着に敗れたのを最後にコンビを解消した。

1999年桜花賞プリモディーに騎乗しJRAGI初勝利。しかしその翌週、中京競馬場で施行された小倉大賞典マルカコマチに騎乗予定)の本馬場入場の際に落馬事故で肋骨骨折、左腎臓損傷の重傷を負う。秋には復帰し、朝日杯3歳ステークスを自厩舎の所属馬エイシンプレストンで制した。エイシンプレストンとのコンビでは2001年香港マイルを制し、2002年2003年クイーンエリザベス2世カップを連覇するなど国内・香港で活躍した。

2003年は福永祐一にとって念願の牡馬クラシック制覇を成し遂げるチャンスだった。同じ瀬戸口勉厩舎所属できさらぎ賞を含め3勝をあげていたネオユニヴァースと、2歳王者となっていたエイシンチャンプをお手馬としてかかえ最終的にはGI馬であったことからエイシンチャンプを選んだが結果としてミルコ・デムーロに託されたネオユニヴァースが二冠を達成、福永祐一は最大のチャンスを逃すことになった。後に本人は「ネオユニヴァースの方が強いと思っていたが、先に依頼のあったエイシンチャンプを選んだ」と語った。

2005年の春のGI戦線では武豊とともに大活躍しフェブラリーステークスメイショウボーラーで、桜花賞とNHKマイルカップラインクラフトで、優駿牝馬をシーザリオで制したほか冬にはフサイチリシャールで朝日杯フューチュリティステークスを勝利した。またシーザリオでは同年7月3日(現地)アメリカ合衆国ハリウッドパーク競馬場で開かれたアメリカンオークス招待ステークスにも優勝し、日本生産・調教馬初のアメリカG1競走優勝という偉業を成し遂げた。また自身初のJRA年間100勝以上も達成した。

2006年エリザベス女王杯ではフサイチパンドラに騎乗。カワカミプリンセスに1位入線[1]を許したものの同馬は審議の結果進路妨害で12着に降着し、フサイチパンドラが繰り上がり優勝。また同年に新設された阪神カップをフサイチリシャールで制し、初代王者となった。

2007年には、優駿牝馬でローブデコルテに騎乗し優勝。2001年から7年連続のジーワン(GI及びJpnI)競走勝利となった。9月9日には馬場入場時に騎乗していたゲットザチャンスが暴れて落馬し、その際に右腹部を蹴られ翌日の騎乗をキャンセルすることになった。10月6日に史上27人目となるJRA通算900勝を達成した。11月26日兵庫県宝塚警察署から一日警察署長を委嘱されたことが発表され、11月29日の「年末特別警戒隊発隊式」に出席することになった。

2008年も順調に勝利数を重ねた。9月27日には第4競走の2歳新馬戦で勝利し、8811戦目で父・洋一の通算勝利数(983勝)に並んだ。(洋一は5086戦目で983勝目をあげている)また、11月30日京都競馬場で行われた12Rにオリオンスターズに騎乗し中央競馬史上23人目(現役10人目)となるJRA通算1000勝を達成した。また12月6日と7日に行われるワールドスーパージョッキーズシリーズ(WSJS)に、負傷した武豊騎手に代わっての出場。

 

成績

GIまたはJpnI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別) 

JRA・GI 13勝(海外GI4勝、交流1勝)

安藤勝己

笠松時代
兄・光彰も騎手である影響から1976年、地方競馬の笠松競馬場で初騎乗。同年12月のジュニアグランプリをシプリアパールで優勝し初重賞を飾る。翌1977年は78勝を挙げリーディング2位となり、さらに1978年に116勝を挙げリーディングジョッキーとなる。以降リーディングジョッキーに君臨し続け、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日は無い」と言われるほどであった。1985年に「名古屋の天才」と謳われた坂本敏美が引退を余儀なくされた後は、2003年に中央競馬に移籍するまで笠松競馬場のみならず東海地区のトップジョッキーとして活躍した(JRA移籍時の通算勝利数は3299)。

笠松時代のお手馬
オグリキャップ
笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として最も有名であるのがオグリキャップである。勝己は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ転厩するが勝己は中央競馬の騎手免許が無いため騎乗することはできず中央移籍後は河内洋、南井克巳、岡部幸雄、武豊、岡潤一郎、増沢末夫らJRA所属の騎手が騎乗した。

それでも笠松で行われたオグリキャップの引退式では勝己がオグリキャップに跨りスタンドを2周し、笠松のファンを喜ばせた(オグリキャップは中央・地方時代を合わせて32戦を戦ったが勝己が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である)。

オグリローマン
勝己はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。後にオグリローマンは中央競馬へ移籍し、1994年の桜花賞を武豊を背に制した。

現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することは珍しくない(戸崎圭太、吉田稔など)。しかし1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマー、ジャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や地方競馬騎手招待競走のみに限られており、勝己が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのはやむをえないことであった。

中央競馬への参戦
勝己がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で引退後に種牡馬として成功しその名を残すヤマニンスキーによるものである。

1995年は「交流元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく開放された年であった。同年ライデンリーダーと安藤は10戦10勝の成績を引っさげ、笠松競馬所属のまま中央競馬の重賞・4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出走した。2番人気ながらライデンリーダーと勝己のコンビはレースレコードで勝利を収める。この時スタートしてから第4コーナーに差し掛かるまでずっと勝己はライデンの手綱をしごきっぱなしであり、それでもズルズルと下がって位置取りを悪くしてしまう様子を見た関西テレビの杉本清は「好位に上がろうとしますが、中団からやや後ろといった所…」と不安そうに実況している。しかし、ライデンリーダーは直線の入り口でグッと体を沈めるような姿勢をとると矢のような末脚で全馬をまとめて差しきってしまった。レースの流れについて行けないように見えた姿からは想像もできないその破壊力に、杉本アナは「ライデン…!」と言ったきり絶句。少し間が空いた直後「これは強い!!恐れ入った!!」と絶叫している。そのためこのレースの中継VTRは、直線残り200メートル付近からは一時競馬場の大歓声だけが聞こえているという非常に珍しいものとなっている。

続く桜花賞では後の優駿牝馬(オークス)優勝馬・ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージのサンデーサイレンス産駒2頭を抑え勝己とライデンリーダーは単勝1.7倍の1番人気に支持される。しかし3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れる。続くオークスでも1番人気に支持されるがハイペースの中、道中2番手を追走したライデンリーダーは直線半ばで失速、13着に大敗する。秋はローズステークスで3着に入り当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。

その後ライデンリーダーと安藤のコンビが中央で勝ち星を挙げることはなかったが、「交流元年」に笠松から現われたライデンリーダーと勝己の活躍は非常に大きな衝撃だった。

中央競馬への移籍

JRA騎手試験を受験
上記のように中央競馬でも重賞を8勝、通算100勝を達成するなど活躍していた勝己は2001年に中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験するが不合格(JRA競馬学校卒業者と同じく学科試験を課されたからであると言われ、地方とはいえこれだけの実績を残した騎手を学科試験で不合格にしたのはナンセンスであると批判された)。この事態を受けて、JRAは翌年から中央競馬で一定の成績を残した地方所属騎手に対する試験要項改定(具体的には「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除するもの。アンカツ・ルールといわれる)を行った。そして2002年、再び受験し合格。

中央競馬移籍
2003年

騎手試験合格後中央競馬へ移籍し2003年3月1日、阪神競馬で中央競馬所属騎手としてデビュー。同日の第6競走で移籍後初勝利を挙げる。その後3月30日には高松宮記念(中京競馬場)をビリーヴで優勝中央騎手デビューから30日という速さで、また「お膝元」でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞をザッツザプレンティで勝利しクラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、リーディング3位となる。

2004年 
キングカメハメハで東京優駿(日本ダービー)を制しダービージョッキーとなるなどGI競走を7勝(中央GI4勝)。

2005年
スズカマンボで天皇賞(春)初優勝を飾り、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。

2006年

キストゥヘヴンで桜花賞、ダイワメジャーで天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップを制覇。

2007年
ダイワスカーレットで桜花賞(連覇)、秋華賞の牝馬二冠を達成。また同馬でエリザベス女王杯も制、京都競馬場で行われるGI・JpnIの完全制覇を達成した。

さらにサンライズバッカスでフェブラリーステークスを、ダイワメジャーで安田記念・マイルチャンピオンシップ(連覇)を制し、中央GI・JpnI6勝を挙げる(2007年11月18日現在GIおよびJpnI計16勝)。これは2005年の武豊のと並ぶJRA記録である。

ワールドスーパージョッキーズシリーズに出場。世界中の名騎手たちが参加する中、15人中3位と健闘した。

11月17日に京都競馬場でJRAタイ記録で史上3人目となる騎乗機会6連勝を達成する。

この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(.238)。なお連対率(.410)&複勝率(.524) 共にこの年のトップであった。

2008年

2月3日、京都牝馬ステークスアドマイヤキッスで優勝しJRA通算800勝を達成した。

12月7日、千両賞(500万下)をリーチザクラウンで勝利しJRA通算900勝を達成した。

12月14日、阪神ジュベナイルフィリーズブエナビスタで優勝

12月28日、有馬記念ダイワスカーレットで優勝し有馬記念初制覇と共に中山の芝重賞初制覇。

2009年 
4月12日、桜花賞ブエナビスタで優勝し同レース3勝目。

5月24日、優駿牝馬(オークス)ブエナビスタで優勝し同レースの初制覇し、これで八大競走の中で制していない競走は皐月賞のみとなった。

エピソード
安藤勝己は自分の騎手への価値観に関し、「笠松競馬場のリーディングジョッキーであり続ける中でリーディングジョッキーに価値を感じなくなり、さらに目指すべき目標がなくなったことで騎手という職業自体に魅力を感じなくなりしばしば騎乗をサボタージュし、南関東への移籍や調教師への転職を考えた時期がある。しかし地方競馬および中央競馬に指定交流競走が創設され、フェートノーザンやトミシノポルンガに騎乗してそれらの競走に出走する中で競馬に面白さを感じるようになった」と語っている。
中山競馬場とは相性が悪く、2008年の有馬記念を制覇するまではGI級競走を制覇していない上に、その他の重賞もマーチステークスの1勝のみで芝コースの重賞に至っては上記の有馬記念まで一度も勝てなかった。他方で東京競馬場とは相性が良く、GI級勝利の半数近くを占めている。
現在、中央競馬のGI級競走開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ笠松時代同様に「安藤勝」と変更したというエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月からは光彰の中央移籍に伴い、全紙「安藤勝」になっている。
2003年の中央移籍後、6年連続でGI勝利ならびに年間100勝以上を達成している。また移籍後7年で皐月賞をのぞく旧八大競走をすべて制覇している。
近年はレースに集中するために騎乗数を抑えているが、連帯率、複勝圏率は極めて優秀である。騎乗依頼に関しては東西問わずに受けるようにしており、GI請負人として厚い信頼を得ている。

主な勝ち鞍 

GI級

斜字は統一GI級を指す)

これらは全て中央競馬移籍後であるが、笠松競馬時代にも1989年帝王賞1992年ダービーグランプリ(当時は格付け無し)などを勝利している。

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