▼ 凱旋門賞
凱旋門賞
概要
1920年に第一次世界大戦後に衰退したフランス競馬再興を掲げかつての大レースであるパリ大賞典に匹敵する大レース創設を目指しパン・ヨーロッパ(欧州一)、パン・ワールド(世界一)を目標として誕生した国際競走でヨーロッパのみならず世界中のホースマンがダービーステークスやケンタッキーダービーと並び憧れ、勝利を目標とする世界最高峰の競走の1つである。
ヨーロッパでの競馬シーズンの終盤戦に開催されることでその年のヨーロッパ各地の活躍馬が一堂に会し、ヨーロッパチャンピオン決定戦の位置づけとなっている。同じような位置づけの競走でイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスはヨーロッパ上半期のチャンピオン決定戦となっているが、凱旋門賞のほうは各国のダービーなどを勝ってきた3歳馬が参加することでより高い価値を保っている(日本に当てはめると、その年の総決算であるということで有馬記念と各国のチャンピオン級が集まるということでジャパンカップと両方を合わせたようなものと考えるとよい)。
2008年より芝の競走ではジャパンカップを上回り世界一総額賞金の高い競走になった。
日本でも抜群に知名度や人気の高い競走で日本の馬が海外遠征をする場合も凱旋門賞を目指す場合が多く、日本国内で最上級の活躍をした競走馬が1960年代後半からしばしば参戦している。
なお、欧州以外の国で調教を受けた馬が優勝したことはない(欧州調教師の管理下でのUAE調教馬の優勝例はある)。欧州馬以外の最高着順は、日本から出走したエルコンドルパサーとニュージーランドから出走したBalmerino(バルメリーノ)の2着である。
凱旋門賞解説
同競走の出走条件は3歳以上の牡馬・牝馬で、騸(せん)馬には出走資格がない。これは同競走が繁殖馬の選定の競走と定められているためである。
負担重量は3歳牡馬は56kg、4歳以上の牡馬は59.5kg、牝馬1.5kg減と定められており(1995年以降)、3歳馬と古馬との斤量差が同時期の日本より0.5kg大きくなっている。
世界一総額賞金の高い競走(2008年現在)であり1着賞金は228万5,600ユーロ(約2億9000万円)、総賞金額は400万ユーロ(約5億700万円)である(同じヨーロッパの大レースであるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの1着賞金は43万UKポンド(約6950万円))。2008年よりスポンサーがそれまでのルシアン・ヴァリエール(フランスの代表的な高級ホテルグループ)からカタール・レーシング&エクエストリアンクラブとなり、2007年の総額賞金の2倍にあたる400万ユーロが総額賞金となった。これによりドバイワールドカップに次ぐ総額賞金の高い競走となり、芝の競走ではジャパンカップを上回り世界一総額賞金の高い競走になった。
凱旋門賞当日はロンシャンウィークエンドと呼ばれる国際競走デーが開催され同レースをメインに7つのGI競走が施行される。
凱旋門賞傾向
2009年までの88回中、地元の3歳馬の優勝が43回とほぼ半数を占めており、近年に限っても1990年より2009年までの20年間に12勝を挙げているようにフランス調教の3歳馬が優位となっている。
近年のフランス競馬の高速化に伴い好時計で優勝する事が相次いでいるが、一方で硬すぎる馬場に対する批判も少なくない。フランスの馬場はイギリスの競馬場の馬場に比べると硬く、イギリスの競馬よりスピードが必要であるといわれている。そのため、イギリスのクラシックレースやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制覇した馬の最後の難関とされている(しかし硬いとは言っても日本やアメリカ、イタリアなどの馬場に比べればかなり重い馬場である)。
近年は世界の趨勢として種牡馬になる際に2000mの中距離戦や1600mのマイル戦などの実績を重視する傾向が強くなってきており、こうした競走や北米で主流のダートへの適性を示して種牡馬価値を高めるため一部の陣営が凱旋門賞を回避[5]し必ずしもその年の「ヨーロッパチャンピオン決定戦」とならない場合もあり、1999年から2008年までの10年間のうち凱旋門賞優勝馬がヨーロッパ年度代表馬に選出されたのは4回にとどまっている。
凱旋門賞日本での評価
日本では必ずしもヨーロッパで高い評価を得られた場合でなくとも凱旋門賞の優勝馬には大きな注目が集まり1959年以降、2008年までに15頭が種馬として輸入されている(1年間のみのリース種牡馬1頭、牝馬1頭を含む)。特に1988年以降は10年間で6頭が種牡馬として日本に輸入される人気だった。
これらのうち1959年の優勝馬セントクレスピンや1986年優勝馬のダンシングブレーヴは種牡馬としての重大な欠陥[7]をもって輸入されたが、日本での治療により種牡馬能力を回復して八大競走優勝馬を複数出すほどの好成績を残した。最良の成績を残したのは1988年優勝のトニービンで、1994年に日本の種牡馬チャンピオンとなった。また、1994年の優勝馬カーネギーは日本と南半球を行き来するシャトル種牡馬となってオセアニアで活躍馬を輩出している。また牝馬の優勝馬はサンサンがただ1頭輸入され、重賞勝ち馬2頭を産んでいる。
一方、ラインゴールド、プリンスロイヤルのように不振だったものもおり中でも1995年優勝のラムタラは44億円と言う巨額のシンジケートが組まれて輸入されたものの大きく期待に反する種牡馬成績に終わった。このラムタラのほかボンモー、キャロルハウス、エリシオ、マリエンバードが再輸出された。トピオはもっぱら三冠馬ミスターシービーの母の父として名を残すにとどまっている。
2006年にディープインパクトが挑戦した際には日本の放送史上初めて、地上波での海外競馬の生中継がNHKによって行われた。
凱旋門賞歴史
「凱旋門賞」という名称の競走は1890年以前から春に敗者限定競走として行われていた。一方、10月初めには「ナンテール賞」(Prix de Nanterre)という売却競走[8]が行われていた。そこでこの「ナンテール賞」を廃止し、「凱旋門賞」を改めて新設の国際競走として秋に施行されるようになった(後に「ナンテール賞」は春に施行される3歳限定の競走として改めて創設された)。名称を「戦勝賞」(Prix de Victoire)にしようという案もあった。
- 1920年 - フランス競馬再興を掲げ創設。
- 1922年 - Ksar(クサール)が史上初の連覇。
- 1925年 - 1位入線のCadum(カダム)進路妨害により2着降着、Massine(マシーヌ)が繰り上がり優勝。
- 1932年 - Motrico(モトリコ)が一昨年に続き同レース2勝目を挙げる。
- 1937年 - Corrida(コリーダ)が牝馬として史上初の連覇。
- 1939年 - 第二次世界大戦により開催中止。
- 1940年 - 前年同様に開催中止。
- 1941年 - 凱旋門賞史上最少の7頭立てのレース。
- 1943年 - ル・トランブレー競馬場の芝2300mで代替開催。
- 1944年 - 前年同様に代替開催。
- 1951年 - Tantieme(タンティエーム)が3頭目の連覇を達成。
- 1956年 - イタリアのRibot(リボー)が4頭目の連覇。
- 1959年 - 1位同時入線のMidnight Sun(ミッドナイトサン)進路妨害により2着降着、同時入線のSaint Crespin(セントクレスピン)が優勝。
- 1965年 - Sea-Bird(シーバード)が凱旋門賞史上最高の6馬身差の圧勝。
- 1967年 - 凱旋門賞史上最多の30頭立てのレース。
- 1970年 - 無敗の11連勝中のイギリスクラシック三冠馬Nijinsky(ニジンスキー)がSassafras(ササフラ)に敗れる。
- 1971年 - Mill Reef(ミルリーフ)が史上初のヨーロッパ三冠を達成。
- 1975年 - 最低人気のドイツ調教馬Star Appeal(スターアピール)が後方一気で優勝、4番手以内先行抜け出しのセオリーを破る。
- 1977年 - ニュージーランド調教馬のBalmerino(バルメリーノ)が2着と健闘。
- 1978年 - Alleged(アレッジド)が5頭目の連覇。
- 1983年 - 史上初めて牝馬が1~4着までを独占、5年連続で牝馬が優勝。
- 1985年 - 1位入線のSagace(サガス)、2位入線のRainbow Quest(レインボウクエスト)の進路を妨害し2着降着、Rainbow Questが繰り上がり優勝。
- 1987年 - パット・エデリーが騎手として史上初の3連覇。
- 1994年 - 1980年の優勝馬Detroit(デトロワ)の子、Carnegie(カーネギー)が優勝、史上初の母子制覇。
- 1995年 - Lammtarra(ラムタラ)が4戦無敗でヨーロッパ三冠を達成。
- 1997年 - Peintre Celebre(パントレセレブル)がコースレコード2:24.60で圧勝。
- 1998年 - オリビエ・ペリエが騎手として2人目の3連覇を達成。
- 2001年 - Sakhee(サキー)が1965年のSea-Bird(シーバード)と並ぶ6馬身差で圧勝。
- 2003年 - ワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップに参加。
- 2006年 - 3位入線のディープインパクトが使用禁止薬物検出(当時の日本では禁止薬物ではなかった、後に日本でも禁止薬物になった)により史上初の失格。
- 2008年 - Zarkava(ザルカヴァ)がSagamix(サガミックス)以来10年ぶりに無敗で優勝。